割とギリギリになってみないと色々気付けないもんだなと思った話
出来事を把握するための物差しを視覚化したら何になるだろうか。
ある人は双眼鏡だろうし望遠鏡だろうしサーモグラフィーかもしれない
ある人は手袋でスパイク付きの靴で拳で。
スペクトラムの程度はあれど五感のそれぞれを無意識下で組み合わせて使っている。
自分はと考えれば視覚だ。しかも文字。圧倒的文字限定。
これがいざ日常生活となると差し支えまくってる。全然笑えない。
日常生活における情報交換の形は見た目が9割で音が1割だ。視覚が殆どを占め、いつだって聴覚は遅れて聞こえてくる。
残念なことに活字ベースで成り立っている世界はごく限られている。DMくらいしかないんじゃないか?
筆談だって表情や相手の呼吸、微細な空気の震えなど文字以外の情報込みで伝わる。
ラインとかツイートもインスタも文字だとかいうけどあんなもの全部口語文だ。ベースには親しき知人との日常会話の存在を失くして成り立ちはしない。
文字とは形ばかり視覚の皮を被った聴覚じゃないか。あんなもの剥き出しのテンポだ。
現実に試験ベースではそこそこの自負のあったものたちがいざ社会に出るとどんどん落ちぶれていく様を数多く目にしてきた。自らこの文章を打っている今どんな顔すればいいのか分からないでいる。
活字は共通言語のように見えるが、それに伴う情報量は読み手に全て一任されている。自分の思うように受け取れることが許された世界。そこには供給ラインの一車線だけあればよかった。
それが社会的の交流、相互コミュニケーションとなれば話は違ってくる。受け取るだけではなく、与えることや返すことが当たり前のように要求される。
急激に増えた通路に悪戦苦闘しながらも、交流するため耳から入ってくる言葉という音の断片を活字変換することで辛うじて理解に努めてきた。
それでも音は数限りなく存在し続け、その度に活字の生成をやめることは許されなかった。つねに前へ前へと進み続けるのはこの世界で円滑に存在し続けるため。いつだって脳は疲弊し続けていた。
読み取る能力とはいったい何なのだろう。
たまらず足を止めると風が頰を撫でていった。足元にずっと感じていたはずの閉塞感が今は何も感じない。
そこでやっとはじめて気付く。それは底抜けの開放感どころではなく地面が見えないほどの深い底から吹き上げてくる風だったこと。自分を遮るものが何も無い崖の淵ギリギリに立っていたこと。
どこか遠くから笑い声が聴こえてくる。ああ早くあのよくわからない音とかいうものに活字を当てはめなければ。次の形を探し求めるようにまた一歩、足を前に動かした。
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