小説が読めない時期の過ごし方
ここ数年、脳みそがありとあらゆる創作物の起承転結に耐えられない時が頻繁に増えてきた。そんな時は決まって日常生活もガッタガタに崩れ落ちている。
自分の体が意識と掛け離れている感覚。頭も上手く動かないし手足も動かない。何もかもがバラバラでどうしようもない絶望感に陥っている。
そんな時に何してるかと言えばそういった時はツイッターだけ目で追ってる。
大体140字、追加文があっても240字の世界。スマホ画面の半分ほどにフリとオチが詰めこまれている。
小さなメメントモリがタイムラインをいくつも流れていく。1ツイートあたり30秒弱。生まれて死ぬまでのスパンがとてつもなく早い。人差し指一本と目玉があれば何度でも味わえてしまう輪廻転生の世界。
まばたきがおざなりになり乾燥で濁ってしまった眼球。承と転を待てないほどに疲弊してしまった脳みそ。それでも結だけを求め続ける。
脳は何かしらの刺激が無いとダメなもので、一人暮らしは予測不可能を自分で作り出し続ける作業のように思う。
それが喜びではなく虚しさに変わってしまった者から隣人の手を取るのだと思う。どう考えても用意してリアクションして片付けての一連を一人で成し遂げるには負担が多い。
残念ながらかけがえない良き隣人は願えば手に入る訳では無いのがツラい。
自主的に手も伸ばさず遠い場所に敢えてその身を置く場合それらをセルフネグレクトと呼んだりするのだろう。
一人で生きるとは娯楽に殺されないように逃げ続けることなのだろうか。ラジオスターを殺したのはビデオで、テレビを見続けると馬鹿になるらしいからもう色々と難儀だ。
きっと活字を追っている場合では無いのだと最近薄々気付いている。それでも、何も映し出さないスマホの画面に耐えられそうにもない。