楽に生きていく努力のススメ

楽に生きていく努力のススメ

とか書いておきながら、方法が全く思い浮かばない。苦しい努力ならいくらでも思いつく。

嫌いな上司に頭を下げ、先輩のみならず後輩にも馬鹿にされながら愚直に仕事をする。まで考えて、あれ?努力って何だっけ?と思った。



自分にとっての苦しみだけが浮き彫りになる。

人と心地よい関係を作ることの失敗。物事を円滑に進めることの失敗。

思えばゆりかご以前、最初の他人である親をはじめ現在に至るまで人間関係は全てうまく行ってない。スマイルは0円足りとも稼ぐことができないレベル。通りで金稼ぎとは無縁の筈だ。



だから全てのフィールドがアウェーだった。ホーム戦どころか毎日ホームでアローンしている。

それは職場に限らずどこでも続くから不思議だった。夜の街に拠り所を求めてみても金が無い為、懐の痛みが強力で情緒が滅裂になるだけだった。

きっちりとした一人分の居場所が欲しいわけではなく、人未満の存在があやふやなまま存在できれば、甘さを捨てきれずにそんなことを夢見てしまう。きっと幽霊も中途半端に空中へ漂うことでやっと地上に存在することが許された存在なのだと思う。知らんけど。



身の丈以上の幸せを傍受しようとした覚えはない。

賞賛も求めていない。居心地の良さも、何一つとして他人が当たり前に持っているものを欲しがってこなかったはずだ。

なのになぜこんなにも苦しく感じるのだろう。

何が悪かったどこで間違えたのだろう。



思考の輪郭が曖昧になってくる。ふと視界に影を見つけ、居ても立ってもいられず気がつけば駆け出していた。その姿はどんなに目を凝らしてもよく見えなかったけど、追いつければきっと今より楽になれる気がした。知らんけど。


六本足嫌悪記

虫が苦手だけれども家の中に虫が入って来た時の絶望感はなぜこんなにも日常と隣り合わせなのだろう。



側頭部を指で梳くとゴッソリと髪の毛が挟まった。その中で蠕くものがある。小さなヤスデだ。

どうやら頭の中に巣を作り住み着いているらしい。時々不注意で潰してしまうこともあるが、気がつくとまたいつの間にか現れる。

初めて見たときは百足だと慌てたものだった。百足にはこれまで幾度となく痛い思いをされられてきた。一度足を刺されれば激痛で歩くこともままならず三日三晩苦しむ。やっとの思いで一匹を潰し終えた日の晩、決まって二匹目がやってくる。百足は番いで行動するため二匹潰さないことには終わらないからだ。仇とばかりに向かってくる好戦的なそれは精神的に酷く堪えた。

それに比べてヤスデといえば、こちらへ向かって来ることもなければ余程のことではないと刺してくることもない。手の平から地上へボトリと落ちては薄暗く湿った物陰へと逃げていくばかりであった。

たまに長雨が長く続いたあとなんかに数匹一緒に現れることがあったが、どの一匹として同じ方向に逃げていくことはなかった。

時折、夜遅く寝静まった頃に限って顔付近を這いずり回るのには閉口したが、払いのければ地上ではないのが分かったのかまた一目散に逃げていった。

逆立ちしたって何も出てきやしない




同じ目に合えばいいという論調の想定後だったのは明白で嘆きも同調も救済も全ての感情がおこがましく思えてただ遣る瀬無さに横たわっている。

こんな時も自分を省みることしか出来ないけど、大事なものを思いつこうとして手の平を覗き込んでもやっぱり何も無かったりする。

居場所を作ったり与えたりという行動が声高に唱えられて、そもそもの現状だとか前提はいつだって無かったことにされている。他人に恐怖を覚えること思考がままならないこと集団行動にそぐわない振る舞いになってしまうこと自分の脳がコントロールできないこと声が出なくなること心拍数が跳ね上がることまともに呼吸ができないこと失敗の後の一人で見ているこの景色全てがこの網膜越しにしか存在しない世界。せっかくの対処法のはるか後ろの方でつまづいてる現実の自分に気付いてただもんどりを打った。



声を大きくしておけば平気でいられる。心が痛まなければ普通でいられる。意外だったのは御旗に掲げられたのが被害者サイドのメンタリティだったことぐらい。日頃は見下してるくせにさ。そう言いながらどっちがどっちかなんて最後まで分かりはしないのに。

いつだって大仰な主語の裏側で心痛めたのはいつの間にか化け物に仕立て上げられていた僅かな個だった。



群れからはぐれれば個では生きていけないことを知った。生き物とは群。そこまで考えかけて思考に静かに蓋をした。

頭の中で幾度となく繰り返した模擬訓練も現実の前では余りにも無力だったからだ。

微かに地面が振動している気がした。思わず半歩ほど後退った右足の靴底と床はコツリと音を立て一呼吸の安堵あと、にわかに空を切った。触れた先の床からガラガラと崩れ落ちていく。やけに冷静な頭が全てがもう手遅れなことを知らせた。大多数が否定した空に辿り着ける日を夢見た。やる事なす事後手になっていく逆さまの世界で。

今回も優しさライセンスの不合格通知が届きました




世の中には優しさが溢れかえっている。

優しさライセンスの一級保持者は決まって光輝いていてその眩しさのせいで目が何個あっても足りない。ぐわーー。

少し時間をおいたら嫉妬心辛み逆恨みが噴き上がってくるからその流れで上昇する。上がり終わったら急速落下の自己嫌悪で水面へと勢いよく叩きつけられる。

こんなことを繰り返していたら、いつか深い海の底に辿りつけるんじゃないかと思う。肺活量無いからあんまり長く潜れそうにないけれど、そんな深海魚になれる日を夢見ている。



思えば優しくしようと思い立つのは全て自己保身からのように思う。

我欲が迸った優しさはなぜこうも粘着質で生臭いのだろうか。一級ライセンス保持者の優しさはマシュマロのような気持ちよさだというのに。

きっと手の内で持て余している時間が長いからだろうね、こうもベチャベチャになるはず無いのに。今日も手の中にグチャッとした優しさしか持ち合わせていない。



この出来損ないの優しさもこの世に存在しているからにはきっと何か意味があるのだと思う。

例えば変な人に絡まれてる人が居たとして、その絡んでる変な人にこの呪われし優しさを発動してみるとか。そうすれば酸性洗剤と塩素系漂白剤を混ぜ合わせたようなケミストリーくらいは起こせる筈だと思う。

困っている当人に発動できないからライセンス加算対象外なだけで。

割とギリギリになってみないと色々気付けないもんだなと思った話

出来事を把握するための物差しを視覚化したら何になるだろうか。

ある人は双眼鏡だろうし望遠鏡だろうしサーモグラフィーかもしれない

ある人は手袋でスパイク付きの靴で拳で。

スペクトラムの程度はあれど五感のそれぞれを無意識下で組み合わせて使っている。


自分はと考えれば視覚だ。しかも文字。圧倒的文字限定。

これがいざ日常生活となると差し支えまくってる。全然笑えない。

日常生活における情報交換の形は見た目が9割で音が1割だ。視覚が殆どを占め、いつだって聴覚は遅れて聞こえてくる。

残念なことに活字ベースで成り立っている世界はごく限られている。DMくらいしかないんじゃないか?

筆談だって表情や相手の呼吸、微細な空気の震えなど文字以外の情報込みで伝わる。

ラインとかツイートもインスタも文字だとかいうけどあんなもの全部口語文だ。ベースには親しき知人との日常会話の存在を失くして成り立ちはしない。

文字とは形ばかり視覚の皮を被った聴覚じゃないか。あんなもの剥き出しのテンポだ。

現実に試験ベースではそこそこの自負のあったものたちがいざ社会に出るとどんどん落ちぶれていく様を数多く目にしてきた。自らこの文章を打っている今どんな顔すればいいのか分からないでいる。

活字は共通言語のように見えるが、それに伴う情報量は読み手に全て一任されている。自分の思うように受け取れることが許された世界。そこには供給ラインの一車線だけあればよかった。

それが社会的の交流、相互コミュニケーションとなれば話は違ってくる。受け取るだけではなく、与えることや返すことが当たり前のように要求される。

急激に増えた通路に悪戦苦闘しながらも、交流するため耳から入ってくる言葉という音の断片を活字変換することで辛うじて理解に努めてきた。

それでも音は数限りなく存在し続け、その度に活字の生成をやめることは許されなかった。つねに前へ前へと進み続けるのはこの世界で円滑に存在し続けるため。いつだって脳は疲弊し続けていた。

読み取る能力とはいったい何なのだろう。

たまらず足を止めると風が頰を撫でていった。足元にずっと感じていたはずの閉塞感が今は何も感じない。

そこでやっとはじめて気付く。それは底抜けの開放感どころではなく地面が見えないほどの深い底から吹き上げてくる風だったこと。自分を遮るものが何も無い崖の淵ギリギリに立っていたこと。

どこか遠くから笑い声が聴こえてくる。ああ早くあのよくわからない音とかいうものに活字を当てはめなければ。次の形を探し求めるようにまた一歩、足を前に動かした。


#「迷い」と「決断」

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身の丈全力疾走に疲れ切って見失ってる現状下




容姿の良い人が言ったことは許されたことも、自分が言ったらウンザリした顔でスルーされるか小馬鹿にされるかしてきた。

そうですかどうせこの世は見た目が9割、いや10割ですもんね。こんな顔面溶け崩れ人間の口から出る雑音は永遠に言葉として届くことがない。今日も生まれてきてすみませんでしたが加速していく。



行動するときはいちいちフルアクセルで頑張らないとできないし。頑張ったら空回りしかしてないし。

なんだかそういうネガティヴスパイラルから一生抜け出せない気がしている。




時折思い出すのは幼い頃グラウンドでスタートラインに立たされていた日のこと。

半袖短パンから出た短く太い手足を太陽が容赦なくジリジリと焦がし、汗は赤白帽のゴム紐を伝い顎へと流れ落ちていく。心臓は限界値ギリギリで鼓膜をバクバクと震わせている。

まるで罰ゲームだ。苦とも思わないであろうクラスメイト達の気が知れない。

足元を少し動かしただけで靴底からジャリジャリと耳障りな音がする。小石だらけのおざなりな整備しかされてないグラウンドコンディション。今からここを走る。



よーいドン。ピストルから破裂音がしたらあとは走り抜けるだけ。

最初はゴールしか見えてなかったのに、いつからクラスメイトや観客席の目ばかり気にするようになったんだろう。



人生は障害物競争。年齢が上がるにしたがってルールは少しずつ複雑になっていっていたんだと思う。悲しいことに一人ずっとそれに気付けなかっただけで。

声援の数とオーディエンスの熱狂。一番にゴールしなくても点数が加算されるシステム。ある程度の足の速さは必要不可欠だけどゴールできればいいわけではないらしい。足も遅かったのにどうすればいいんだよ。

気がついた頃には、圧倒的点差。



正直にいうと今の障害物がなんなのかもうずっとわかってない。

平均台で他人と突き飛ばしあって、小麦粉の中の飴を他人の分まで探してあげて、網に絡まったままずっと抜け出せずに。

ネガティヴだからゴールの定義を考え出せばまた話が変わってきてしまうけど。

猫背アンド巻き肩ストレートネックの負の影響と正しい姿勢アレルギーの間で




思えばずっと姿勢悪く生きてきた。素行や性格のことではなく、後頭部・肩甲骨・臀部・踵が壁に背中を付けて立った時に一直線になる姿勢であるかという意味で。いや、内面も良くないか。物事は後ろ向きに考えて恨み妬んできたし人生の持ち札の悪さに絶望してるし手札交換すら容易じゃないし人生を放棄する勇気もなく今ではセルフネグレクトかましてるし気分が良くなることなんかなかったのだけれども。



動いてようがじっとしてようが猫背の俯き気味で生きてきたが、不思議と姿勢の悪さを注意されたことは一度も無かったように思う。きっとそれ以上に顔の造形の方がよっぽど悪かったし、イメージ的にも底辺陰キャって大体あんな感じだよねと誰の目にも止められずに生きてきた。主に背景モブとして生を全うしている。

いても居なくてもわからない奴。あの人恋人居たことあるんですかね〜?の話題の時だけ上がるような奴。



猫背を長年続けるとまず肩甲骨が正しく中央に寄せられた位置から徐々に腕側の外向きに離れてくる。すると繋がっている肩から腕が横から前の方にずれ、腕の可動域が狭まり肩が内向きに入り込む。これが巻き肩。

巻き肩になると胸から腹にかけてが内側に縮こまることになるので肺の可動域が狭まり呼吸が浅くなる。腹部の腹筋は使われず脂肪が貯まるようになる。この頃には、体重はそんなに重くない方だと思うんだけど腹が出てんだよね、とひとり空虚に向かって言葉を投げかけるようになる。あの頃の未来がこんな続き方してるだなんていったい誰が予想できただろうか。



ストレートネックはもっと簡単だ。

猫背かつ巻き肩の姿勢は常にやや前傾がちになる。頭部が前方に出るため首もそれ合わせて支える。本来なら垂直方向に乗っけられた頭部を土台のように支えていたものが前方やや斜めの形で支えることになる。その為、首の後ろ側の筋肉は伸ばされた状態を維持し、その負荷にアーチ状だった骨の並びが保てず一本の直線のようになることで完成する。

実に余計な事しかしていない。無駄な失敗ばかりが増えていく。本当どうしてこうなっちゃうんだろうな。



頭部が前方にせり出してしまう癖だが、視力の悪さも無視できないと思う。0.1を切ってしまった裸眼で生活をしようとすると、どうしても物を見る際に対象物へと顔を近づけて見ようとする癖が生まれる。だってそうしないとスマホの画面が見えないんだから仕方がない。


どっからどう見ても負のオーラを纏いし陰キャの完成です。

まあデスノのLも初号機も似たような形してるっしょ。と、持ち前の現実逃避という名のスルースキルで特に気にすることもなくこれまで生きてきた。



そして月日は流れ体調がどうなっているかといえば絶不調だ。とってもとっても絶不調。

まず寝起きから背中と後頭部がガチガチのバキバキ。顔は昨晩は酒も飲んでいないのにパツパツに浮腫み、頭はモヤモヤとしたよくわからない圧倒的な負の感情に覆い尽くされている。その寝起きの悪さは手始めに全世界を呪うところからスタートする。これが寝る前まで続く。なんだったら寝てても続くから体が重く調子いいときとかもう全然無い。

今思えば、これはまだ序章に過ぎなかった。生きる屍のようではあるが底辺の日常生活は送れていたからだ。



それはある日、足音も無く訪れた。未だかつて体感したことのない恐怖。

ソシャゲの周回ができないのだ。


まず画面に視線をあわせ合わせ続けることができない。縦画面でも横画面でも。

バリバリの違和感に震える指でどうにか戦闘開始ボタンをタッチするも次の行動へ進行することを全感覚が総動員して拒絶してくる。自分の脳が手が別の生き物のように制御不能の感覚。

幾度となく繰り返してきた思考放棄と惰性で画面をタップし続けるだけの作業がこんなにも苦行に感じる事になるとは想像すらしてこなかった。


これまでどんな空き時間もソシャゲに費やしてきた。重課金勢には遠く及ばないかもしれない。しかしログボや詫び石をコツコツと貯めたなけなしの10、20連で掴んだ2、3枚のイベ特攻を盾に完凸ができないなら!と有り余る長時間を長年費やしてクリアしてきた底辺ユーザーとしての自負がある。

その上、この機会を逃せばイベ限をもう二度と手に入れる望みがないこともわかっている。だってこれ当時参加できなかった前イベの復刻だから。このソシャゲ復刻の復刻はないパターンだから。



刻々と過ぎていくイベント開催期間に気持ちばかり焦るものの依然としてソシャゲができない日々をただ無駄におくる。まあいつも無駄にドブに捨てているようなもんだけど。

そんな苛立ちの中、おもむろにツイッターを開く。フォロワー数1桁フォロー数3桁の布陣で固めたタイムラインに流れる見知らぬ誰かのリツイート。飛び込んできたスマホ首というワード。

瞬時にこれだ…!と思った。

スマホ首てストレートネックの言い方変えただけじゃねえのかアフィ乙と騒ぐ脳内の一部の声を頭の隅に追いやりながら一縷の願いを込めてリンク先の文章を読み進めていく。そこに書かれていた解決方法とは。


スマホを使用するのを控えましょう。


はい出た。

いや薄々わかってたよ。この手の記事の薄っぺらさとかオチとかさ。ウザいほどの広告満載の明るいのにどこか空虚な画面からビンビンに伝わってきてたもの。

長年無駄に培ってきたネットリテラシーが広告を一回も踏むことなく記事を読み終えたもの。

スマホの使用を控える書きでスマホ使用者の広告費を稼ぐスマホ記事に現代の矛盾を見る。



スマホやめて姿勢が改善するとか。こっちは年中無休、陽キャ的イベントを行なっている時でさえ呪われし姿勢のまま長年こうやって生きてきたんだ。

普通にしてたら恋愛できるっしょって言葉並みにもう相槌返すのすら面倒くさいただでさえ満身創痍にこれ以上傷を増やしたくない今はかさぶたいじってる場合でもない本当生きるのツラい。

スマホが今さらやめられるかよ!!!と全力で叫んでみたところで大声出し慣れてないから何か変な感じに出るし全てこれらは脳内会議だししないじゃなくできないんだよ色んな意味で。生涯孤独。自分の四字熟語がこれに決まった瞬間だった。



だから今スマホしながら全力で猫背と巻き肩とストレートネック改善のストレッチをやってる。

スマホを手放せないし、ソシャゲはやめられる訳がない。ツラくても顔面造形溶けかけ不細工で虚無に生きてるほうがもっとツラい。

手放せば本当にやる事が何もなくなってしまうから。



ラジオ体操より圧倒的に低負荷のやつばっかりなんだけど動かしたあらゆる部位からゴリゴリミシミシと尋常じゃない音がしてる。

特に首の後ろ側。頭の位置ずれまくっててへんな笑い出た。

寝起きの頭と首と背中のバキバキはそこそこ効果出てるから、ちょっと続けてみようと思う。

筋肉は裏切らない。